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2018.05.30コラム
プログラムデザインとは何か?(2)

プログラムデザインとは何か?(2)

プログラム・デザインとは何か?(2)―トレーニングの原則との関係―

 前回確認したことは、第1に、プログラムとはトレーニングの目的を達成するためのさまざまな要素を論理的な時間系列にしたがって関連付けたトレーニングの実行計画であって、単なるトレーニング種目の提示としてのメニューとは異なること、第2に、効果的なプログラムの設計をスムーズに行うためには漠然とした目的ではなく、できるだけ明確な(SMARTな)目的設定が重要である、この2点であった。そしてSMARTな目的設定のためには、ニーズ分析という作業が必要になると述べた。ニーズ分析の解説に入る前に、もう少しプログラム・デザインの必要性と意義について述べておきたい。それはトレーニングの原則とプログラム・デザインの関係についてである。

 

◆特異性とプログラム・デザイン

 特異性の原則は、特定の競技種目やポジションに見合った特定の能力、あるいは特に発達させたい個別の能力を効率よく高めるには、それらを発達させるための特殊専門的トレーニングを集中的に行う必要があり、一般的なコンディショニング・トレーニングだけでは効果が上がりにくいという経験的・科学的事実を示したものである。トレーニング経験と競技レベルが高くなるにしたがって、この専門的なトレーニングの必要性が高まる。



 高校生やトレーニングをはじめて間もない大学1年生くらいまでは、筋力のアップがスピードの向上やジャンプ力の向上と高い相関を示すが、トレーニング経験が豊富となり、スクワットの1RMで体重の2倍近くを達成し、10ydダッシュで1秒9前後そして40ydダッシュで5秒前後から4秒台になってくると、筋力の向上がそのままスピードや敏捷性の向上には結びつかなくなってくる。そしてスピードの向上率がジャンプ力や敏捷性などの向上率と相関を示すと言うことも少なくなってくる。

 限られた時間内に最も効率よく目的を達成するには、どうしても特異性のあるトレーニングに集中する必要がある。種目や強度だけではなく、エクササイズの順序や姿勢や休息時間などトレーニング実施上の全ての要素に関してあらかじめ綿密に練られたプログラム・デザインによってのみ目的とする能力の発達にとっての最も特異的な刺激を効率的に加えることが可能となる。

 

◆全面性とプログラム・デザイン

 特異性の原則の対極にある原則、それが全面性の原則である。特異的なトレーニングを早期から取り入れて長期にわたって特定の部分の特定の使い方しかしないと、ほとんどの場合使いすぎによる障害が発生する。これはある筋群ばかりトレーニングする結果、関節における主動筋と拮抗筋間の筋力バランスが崩れたり、特定の動きしかしないために柔軟性が失われたり、関節をさまざまな方向で支持したり安定させる軟部組織の強度が未発達な状態で無理なストレスが繰り返しかかることによるため、と言われている。こうした障害予防という観点から、プログラムに組み込むべき要素を検討する必要がある。特異性にだけ目を奪われて無計画に専門的トレーニングばかり行うことは危険である。

 また、全面性は諸機能の関連性という点からも重要である。目的とする能力の発達に対して一見直接関係がないと思われる別の能力が実は深く関係しており、ある特定の能力を高めるための特異的トレーニングだけでは発達が頭打ちになり十分発達させられなくなるということがある。全ての種目における体幹部の重要性や、脚を中心とする競技種目の選手にとっての上肢、上肢を中心とする競技選手にとっての脚の配慮等がその例である。また、トレーニング姿勢においても全面性が配慮されなければならない。スクワットを競技特性に合わせて、特定の関節角度や姿勢やスピードだけで行うという特異性の考慮も重要だが、それと同時に、フル・スクワットでゆっくりとできるだけ多くの筋線維を刺激し可動域一杯に関節を運動させて靭帯や関節包や腱を刺激することも必要である。いわば大きな器、土台作りの必要性である。

 スポーツと直接関係ないが、筆者の知り合いのあるお母さんが自分の娘を歌手にしようと有名な声楽家に相談をしたところ、今は歌よりもスポーツ、特に水泳をさせなさいというアドバイスをもらって驚いたという話を聞いた。しっかりした発声をするためには姿勢を作る背筋と肺活量を大きくする胸郭と力強い呼吸筋が重要で、大人になってからでは遅いというのである。

 特異性と全面性という矛盾する側面をいかに1つのトレーニングで実現していくか、用意周到なプログラム・デザインをもってしてもきわめて難しい。まして行き当たりばったりのトレーニングでは不可能といわざるを得ない。プログラム・デザインが必要な大きな理由の1つがここにある。

 

◆順応性とプログラム・デザイン

 生体はトレーニング刺激に対して最初は非適応的な反応を起こす。レジスタンス・トレーニングに対しては筋肉や関節の痛みが生じたり、一時的にパフォーマンスが低下したりする。しかし、トレーニングを継続していく事により、すこしずつ同じ刺激に対して適応し、さまざまな機能が改善されていく。だが長期的な同じ刺激を継続しているとトレーニング刺激に対する反応が鈍くなってきて、それ以上の発達が見られなくなる。この状態を順応と呼ぶ。さらなる発達を促すには、刺激すなわちトレーニングの量や強度を変えるか種類を変えるかしかない。

 もし、あらかじめ順応の生じる時期やその程度が予測できるならば、順応してからトレーニングを変更するのではなく、順応が生じる前にトレーニングに変化を持たせる事によってできるだけ停滞を生じさせないように、より効果的な発達を促す事が可能となるだろう。トレーニングのプログラムをデザインするということは、トレーニングの進行に伴う順応に対する対抗手段としてエクササイズの種目や量や強度の変化とそのパターンを最初から計画しておく事でもある。

 

◆オーバーロードとプログラム・デザイン

 トレーニングによる効果を引き出すためには、トレーニング刺激の負荷の大きさは選手が日常的に遭遇する負荷の大きさよりも大きくなければならない。この事をオーバーロードと言う。オーバーロードによってより一層の発達が促されるが、負荷が日常レベルを超えないと能力は維持されるがそれ以上向上しなかったり、低下が生じる。

 プログラム・デザインによって、いかなる機能に対してどのようなオーバーロードを負荷していくかが計画的に設定できるようになる。通常、トレーニングにおいては複数の運動能力の向上を目的とする事が多い。例えば筋力、筋肥大、パワー、スピード、持久力などである。これらを一度に向上させようとしても身体はそんなに多くの課題に対して同時に同じように応える事はできない。そこでプログラムをデザインするにあたって、ある機能に対してはオーバーロードをかけて効率のよい発達をうながし、ある機能に対しては維持できる程度の負荷に留めるといった方法を採用することになる。

 トレーニング指導の実際は、選手の身体の調子やパフォーマンスの変化を確認しながら進めていく事は当然のことである。しかし、どのような機能に対してどの程度のオーバーロードをいかにかけていくか、そのためのエクササイズの種類や強度や変更の時期はどうするか、これらを事前のプログラム計画なしに感覚的にのみ進めていくことは極めて困難である。目標とする時期までに各運動能力をある水準にまで高めようと言う場合、何を先にトレーニングするかという順序や何と何を同時に高めていくかという組み合わせなどの計画が必要である。建築の工程を無視して先に配管をせずにコンクリートを打ってしまってから実はこの個所に水道や電気を引きたかったと言っても手遅れなのと同じである。

 

◆漸進性とプログラム・デザイン

 発達を促進するためのオーバーロードは大きすぎてもまた逆効果である。能力の向上に応じてトレーニングの負荷は徐々に大きくしていく必要がある。急に刺激が強くなると適応障害を惹き起こしてしまう危険性がある。

 基本的には一段一段階段を上るようにステップ方式で負荷を高めていくが、1つの階段を1週間で上っていくか、2週間かけて上るか、目標値と現在値の差をトレーニングの頻度や期間との関係で計画する事によって無理のないしかし確実な向上が期待できる。少し大きめの負荷を一定期間用いた後で、一旦少し負荷を下げ、その後再び大きめの負荷を適用するといった波状的な方法も用いる事ができる。さまざまなオーバーロードの漸進的な適用を計画的にすすめていくこともプログラム・デザインによって可能となる。

 

◆個別性とプログラム・デザイン

 以上のすべての原則を考慮したトレーニングを実行していくためにこそ、プログラム・デザインが必要となるが、誰にでもあてはまる最も効果的なプログラムと言うものは存在しないというのがこれまでのエクササイズ・サイエンスの結論である。したがって個別の目的、年齢、性別、身体的特性、トレーニング経験、その他諸条件に応じて個別のプログラムをデザインすることが理想である。この理想を施設、時間などの現実的条件に照らしてぎりぎりのプログラムを作成していくことになる。

 

以上のように、トレーニングの効果を高めるための原則は、トレーニングを進めていく過程で漠然とあるいはその都度考慮すればよいと言うものではなく、これらの原則を考慮したトレーニング・プログラムをあらかじめデザインすることによってのみ、より厳密に適用していくことが可能となる。S&Cのプログラム・デザインとは、トレーニングの原則の具体的な創造的適用過程そのものなのである。